暴力と教育(子育て)

先日のキャンプで私は生徒を厳しく怒り(もちろん叩きました…暴力を振るいました)ました。なぜ、厳しく怒ったか?それは命にかかわる行動を勝手にとったからです。一人用のカヌーで、自分の判断力と技術の習得と粘り強さが求められるカヌー漕ぎです。安全を考えてみんなライフジャケットを着て湖の中央まで漕いで行きました。(ライフジャケットを着装しないと湖には入れません)記念写真を終え、自由行動にしました。ただし、必ず集団行動すること。自分勝手な行動をとらないこと。などを生徒たちに告げ、その場を解散しました。暫くして、ある男の子が一人で岸の方に漕いで行くのが見えました。私たちは、その子を追いかけていきました。彼以外はみんな小集団で、富士山が見えるところまで必死に漕いでいました。彼だけが、単独行動に出たのです。最初に乗った場所から離れた岸に着いてから、彼はボートを置き去りにし、ライフジャケットも脱いでキャンプ場の方まで駆け足で行くのが見えました。私たちは最初トイレかなと思いましたが、どうもカヌーに飽きて、虫捕りをしたいらしかったのです。しかし、それにしてもカヌーの置く場所が違うので、元の場所に持って行きなさいと注意しました。その後、彼は自分のカヌーを取りに行きました。そこで、ビックリです。彼はカヌーに乗って戻ってくると私たちは思っていた(そうしなければ運ぶのは無理)のが、湖の岸沿いに(湖に入って)カヌーを手で引っ張っていたのです。ライフジャケットも着ないで…そして、どんどん沖に流されていく彼を確認しました。胸のあたりまで湖面が来ていた時には、私たちはやばい、溺れると思いました。すぐに大声をあげ、カヌーを離すように指示し、陸へ上がるように言いました。カヌーは沖に流されそうでしたが、運よく戻っていた生徒たちに頼んで彼のカヌーを持ってくるように指示しました。あのまま私たちが彼から目を離していたら、と思うと背筋がぞ~とする思いでした。そんな時、私は彼を呼び戻し、怒ったのです。集団行動をとれなかった彼、ライフジャケットを脱いで湖に入った彼、カヌーを漕がずに歩いて湖に入った彼、もし、深みにはまって溺れたら…(彼は泳げません)そんな彼の行動を私は許せませんでした。

私は暴力がすべていけないことだとは思っていません。多くの親(社会)の中には、暴力は絶対にいけないと思っている方もいるでしょう。自分の子に手をかけたことがない親もいるかもしれません。しかし、命にかかわることに関しては「ダメなものはダメ」と私は言いたいし、話しても理解できなければ暴力で制する(気づかせる)必要があると思っています。(こんな事をブログに載せたら、生徒が減ると妻に言われそうですが…)世間で騒がしている今回の体操界のパワハラ問題におけるコーチの謹慎処分も同じカテゴリーだと感じています。命を預かるコーチの暴力はあってしかるべきもの、まして、幼少時代から教えているのならなおさらです。大人の言うことがその時は理解できなかったり、もちろん、成長過程で反抗期など精神的なものが判断を狂わせていることも事実なのですから。

学校教育(大学教育とは別)とは、知識を教えることだけではないと思います。その知識の獲得の過程や勉強の取り組み方(正しい姿勢)、考え方、さらに、将来の方向性など、教師が一人一人の生徒と真剣に向き合い、ともに考えていくことが本来の教育の姿だと思います。その過程において、ほめることはもちろん、厳しく叱るときもあるでしょう。そして、最終手段として体罰(暴力)もありえるのです。一概に、「暴力」という概念だけで、批判するのはいかがなものでしょうか。現実に現在の学校教育では「体罰」禁止という法律のもと、教師たちは本来の教師の姿をしていません。法律の名のもとに教師自身の行動が制限されています。これでは教育などできません。実際、学級崩壊など小学校の低学年から始まっています。今や、その逆に、大学教育でも授業崩壊がおこる始末です。当たり前です。生徒に迎合する教育。ほめる教育。体罰が許されない環境。モンスターペアレントが生み出すモンスターチルドレン達。これは各世代を問わず存在するのです。結局、自己中心的な親、子ども、家族、地域社会を生み出してきたのです。学校の教師が悪いのではありません。教師から体罰を奪った「優しい」「正義感を振りかざす」「真面目そうな」仮面をかぶった自称教育学者たちがこんな社会(教育現場)をつくったのです。(ちなみに、イギリスでは「体罰」が復活しました)

本当に生徒のことを思って叱った(暴力を含む)時は、決して生徒が教師を悪く思うことはありません。これは事実です。自分(本人)が悪いのですから。逆に、先生を信頼し、指導を仰ぐようになります。これは私の今までの経験から確かなことです。私自身も小学生の時、勉強のできない子を友だちといじめ、先生に殴られた経験があります。でも、子ども心にその先生のことを嫌いになりませんでした。今でもその先生のことは忘れていません。高校の時には、友だちがタバコを吸って、部活(サッカー)の顧問が私たちの目の前で彼をボコボコにしていました。しかし、その後、彼も私たちもその先生の事を嫌いになるどころか、いろいろな事をよく相談に行き、そして、信頼し、大好きでした。殴られた彼は、現在、6人の子どもの親として立派に生活しています。真剣に向き合ってくれた先生ほど生徒思いの優しい人だとその時は感じました。真剣に怒ってくれる人が一番大切な人だと言うことは、今も昔も変わらない人間の本質だと思います。

しかし、この事が理解できない多くの若者が増えたことも事実です。幼少からの子育てにおいて、厳しく怒られることもなく、ほめて、ほめて、話して、納得のいくまで説得して、常に子どもが家族の中心的存在として育てられると自己中心的な子どもになります。幼少時代は、好奇心旺盛で、何でもチャレンジし、いたずらしたり、親の目を引くような、または、親に気にいってもらいたいがために、自分の感情を押し殺して、親にほめてもらいたい一心でいい子を演じる子どももいます。それを勘違いして、うちの子はとても優しくて、聞き分けのよいいい子だからと言って、こどもの言いなり(子どもの言うことはすべて真実と思うこと、何でも欲しいものは買ってあげるなど)になってしまう親がいます。子どもは本来いたずらをして、親に怒られながら成長するのです。その繰り返しで、善悪の判断を覚え、親の厳しさを学び、社会に適応する人間となるのです。この過程を経ないで大人になると危険なのです。これは、決して一部の人だけのことではありません。勉強やスポーツができない人もできる人も同じです。だから、優秀な大学へ通っている人でも十分ありうる精神構造(自己中心的であること)なのです。

子育ての鉄則は「鉄は熱いうちに打て」ということです。正直、犬のしつけも同じだと思います。悪いことをしたら、すぐその場で叱ること。それも、幼いとき、可愛そうだからといって放っておいたらダメということです。大人になってから修正しようと思っても、より困難になります。幼いうちに「親の威厳」と「善悪の判断」を体得しなければなりません。

ですから、みなさん、勇気を出して、子どもに嫌われるのを覚悟で、厳しく叱りましょう。それが、子どもの将来を本当に考えた躾けです!!