新型コロナウィルスについての考察(経済・政治・教育)

昨年の12月あたりから中国で始まった新型コロナウィルスが、現在その中心がヨーロッパに移行し、世界中で蔓延している。いつ収まるのか?ワクチンがいつ開発されるのかまったく不透明な段階であるが、いつかは終息すると安易に考えている私は、ふとこの疫病について3つの関連性を考えてみたくなった。詳細な研究をしたわけではなく、私の憶測の域をでないが、現象面からの考察である。

まず、その一つが経済との関連性だ。もし、この疫病が200年前起こったら世界はどうなっただろうか?おそらく感染した国々は限定的だったはずだ。まず、中国の属国とされた中国に隣接した国々(韓国)、そして、貿易相手国の日本だ。さらに、シルクロードやアラビアの商人の手でヨーロッパにも多少広がったかもしれない。決して北米や南米、オーストラリアにまで広がらなかったのではないか?イギリスで産業革命がはじまり、資本主義という名の帝国主義(植民地支配)によって世界は一気に狭くなった。誰もが船や飛行機を使って自由に行き来できるようになった。そうして資本主義競争は、自由競争、自由貿易、関税の撤廃、グローバル化、世界基準、世界標準などを生み出し、物の移動の自由や人の移動の自由が一般化した。これこそがパンデミックの主原因だ!中国を植民地化し労働者を低賃金で雇って利益を搾取してきた先進国の巨大企業(多国籍企業)、21世紀の「世界の工場」とまで言われ世界中の商品を作ってきた。その影響がここにきて悪い意味で顕在化したのだ。現在、中国では工業生産額が上昇し、労働者の賃金の上昇傾向がおこり、利益率が下がり始めたため、各企業は自国回帰の動きや他の低賃金労働者を求めて工場の中国からの移転が起こっている。日本の企業もメイドインジャパンに回帰する動きがすでにはじまっている。中国との経済的なつながりが多ければ多いほど、疫病のリスクが拡大する。中国の経済は先進国の企業の工場となることで発展を続けてきた。今回のこの事件で中国回避という傾向が加速されるかもしれない。最近の疫病(SARS)の流行が必ず中国を介在するからだ。これは資本主義経済の負の側面と考えることは可能なのか、経済学者ではないので一概には言えないが、今起きている株価の下落や経済活動のストップはまさにここまでグローバル化した世界秩序の崩壊を意味しているのではないだろうか。ウイルスは次々に変化してまたやってくる。生物の進化と一緒だ。14世紀のアジアとヨーロッパを襲った黒死病(ペスト)などはいい例である。日本経済もまたこのまま世界のグローバル化に邁進していると国が滅びる原因となるかもしれない。食料自給率が40%の日本は世界中からの輸入がストップしたらおしまいである。日本の伝統食品として代表的な味噌や醤油の原材料や家畜のえさのトウモロコシ等の穀物の90%以上が外国産であることを忘れてはならない。農業だけではなく、工業でさへ日本の下請け工場を中国が担うことになったら、これも日本の産業に打撃を与えるリスクが大きくなる。今回武漢にあったホンダの工場が閉鎖し、トイレの部品が中国から輸入できず、建築業がストップしたように。唐突な考えだが、江戸時代、日本は250年間以上も鎖国をしていた。しかし、そのことが平和を長い間維持できた理由でもある。当時の先進諸国が資本主義経済という激しい競争社会に突入したために、日本も(アジアやアフリカなども)そこに巻き込まれた感があった。多くの国々が植民地化され、搾取されたのだ。そして、21世紀もまた同じ轍を踏もうとしている。歴史は繰り返す。まさに、疫病もまた進化して人類に襲いかかる。

次に、政治との関連性だ。この疫病をどうやって封じ込めるか各国の方策に大きな違い見せた。いつも、こうゆう時は日本政府の手際のまずさが目についたが、今回は感染者数とそれに伴う死亡率においては先進国の中で群を抜いて少ない。このことは何を意味しているのか?平和ボケといつも非難していた政府が上手に専門家の意見を取り入れて鎮静化を図っていることに少しホッとした気持ちになった。イギリスやドイツ、フランスなどの先進諸国は次々と経済的な処方箋と医療的な鎮静化を施しているが、そのやり方はかなり強引で厳格化している。法律を使ってすべてを禁止し、従わないものには罰則が存在する。そうしなければこれら国の人びとは政府の言うことを聞かないのかもしれない。これは単なる政治力ではなく、国民性の違いだと思った。そう考えると日本人の国民性は精神的にもすばらしいと思えるのだ。まだまだ予断を許さないが、この考えが正しいと思える日を迎えるしかない。決して日本政府の政治力がこのような状況を生んだのではなく、日本人の国民性がどんな災害でもパニックを起こさない精神構造が昔から存在しているのだと思う。神戸の大震災や東日本大震災での多くの災害に合った住民の姿を見れば納得がいくのだ。どんな災害時でも日本人の振る舞いが世界から称賛されることでもわかる。欧米と日本の違いは、政治力ではなく、教育力の差だと感じた。

三つめは、教育との関連性だ。いつも私は欲求不満耐性のことを言い続けてきたが、一番それがみえた事件でもある。私は日本の今までの教育がそれを可能にしたのではないかと考えている。ヨーロッパでは個人主義が横行し、法律で、それも罰則をつくらなければ政府に従わない奴らばかりなのだ。特にフランスがその典型だと思う。個人主義がもっとも顕著に表れている国だからだ。日本では要請だけであって、それにみんなで一致団結できる国民性があるのだ。近年の日本で「ほめる教育」「叱らない育て方」「自己肯定感を育てる」などと欧米化された考えのもと教育が実施され、もてはやされてきた。そして、そのなれの果てがモンスターペアレントやモンスターチルドレンと呼ばれる新人類を養成してきたのだ。教師間の「いじめ」、残虐事件の低年齢化、親殺し、子殺しなどの親族殺人の増加、引きこもり人口数十万人など、突発的・短略的な自己中心的な事件が後を絶たないのはこのためだ。しかし、多くの国民は理不尽で、忍耐を要求する社会に我慢強く生き抜いてきたという経験がある。私はこの事実が今回の感染者数の減少に影響していると思えてならない。決して、長時間労働などのブラック企業の存在や体罰による教育・指導現場はあってはならないことだが、そういう中でも生き抜く力が日本人には備わっているような気がする。これは日本の戦後教育、否、江戸時代から続く寺子屋による教育から備わった感性ではないだろうか?そう考えると今までの日本の教育の仕方にも利があったのではないかと思える?決して、欧米の思想や教育がすべてすばらしいとは言えないと感じるのは私だけか?日本体育大学の「集団行動」という芸術は統一された規律がなければ見事に演じきれず、その中には個々人の葛藤が必ずあったはずである。我慢すること、独りよがりにならないこと、周囲に合わせること、みんなで一つの事を成し遂げること、そのためには個人の多少の犠牲は目をつぶることだ。最近のオリンピックの開会式や閉会式で整列しないでバラバラに登場することが多くなったが、「整列が軍隊式だ」とか「個人の尊厳に反する」とか「自由の精神を」とか言うことが果たしてスポーツの精神なのだろうか?スポーツには明らかに「ルール」があり、それに従わなければ「反則」なのだ。柔道や剣道、空手など日本の武道は常に「規律」「相手に敬意を払う心」「自己責任」「礼儀」などが重要視されてきた歴史がある。相撲の世界でもやはり同様である。以前、朝青龍が勝利したとき「ガッツポーズ」をとったことで相撲界では横綱としての品格が問われたことがあった。高校野球や大学野球での応援団による応援合戦などもこのたくいだ。対戦相手に敬意を払うという礼儀作法だ。勝利至上主義で、勝つことが重んじられ、その喜びを体全体で表現することが欧米では当たり前のようである。日本では勝ち負け以前に双方で尊重しあう感性があるのだ。これこそ日本が世界に誇れる精神世界なのである。これはひとえに日本の教育力なのである。だから、日本の教育者(保育園の先生、幼稚園の先生、小学校・中学校・高校の先生、大学の先生)のみなさん、胸を張って、自信をもって子供たちに指導してください。正しいこと悪いことの善悪の判断を明確にして、見て見ぬふりをしないで厳格に指導してください。我慢させるところは我慢させ、みんなと歩調を合わせられる人材を育ててください。ただし、互いの個性を尊重することが一番大切だと教えることも忘れないでください。子供たちの未来のために。