公立学校の部活動を廃止したら?

公立学校の部活動廃止したら?(拘束時間が長い部活動はいらない)

 

そもそも学校教育の中での部活動は趣味の域をでないのです。プロを目指すわけでもなく、まして、学校の先生の仕事は勉強を教えることが第一義のはずです。そのために私たちは税金を払っているのです。さらに、その道のプロではないのです。例えば、サッカー部の顧問がサッカー経験者というだけで、指導のライセンスや指導法の勉強をしてきた先生ではないのです。部活動を一生懸命やれとは誰も言っていないのです。主権者である国民の教養を身に着けさせるために国民は税金を投資しているのです。人格の完成を目指すとか、勉強だけでは人間性が育たないとか、課外活動がそれを補完する者だと勘違いしている先生や親が多すぎます。学校教育はまずいろいろな学問や技術を教え、考えさせることで人格形成に役立てるのです。そのために、日々変化していく学習内容を取捨選択し、吟味し、生徒に伝え、考えさせるのが教師の役目です。

決して、スポーツや芸術ではないのです。それを夏休みも冬休みも春休みもほぼ毎日部活の練習をしたり、それも長時間生徒を拘束し、さらには、定期テスト3日前まで試合を組むというバカらしさ。文武両道などどこにもなく、個人差なども考慮せず、先生の趣味や考えに従わせている。試験3日前から部活動休みとは誰が決めたのか?勉強ができる子はそれでも対応できるが、そうでない子が半数以上いるにも関わらず、部活動優先の日々、これでは勉強どころではない。とくに学年が低い生徒たちは体力もなく、部活が終わって家に帰れば疲れ果てバタンキューで勉強どころではなくなります。

なぜ、もっとゆとりがないのか?というか、現在の学校教育では時間的余裕がなさすぎます。合唱コンクール、運動会、文化祭、修学旅行、林間学校、球技大会、遠足、卒業遠足などなど勉強に関係ない時間に多くが費やされています。確かに、集団行動や協調性を養うためには宿泊体験や共同作業が必要でしょう。しかし、果たして狭い学校の中だけが、そういう感覚を養う場なのでしょうか?そもそも、学校教育法では「個性を伸ばし、主体的に生きる力を養う」とうたっているのに、没個性を要求されたり、個の尊重よりも協調性を重視する指導がなされているように感じます。賛否両論はありますが、まず、その代表が学生服です。世界の多くの先進国の公立学校で制服があるのは東アジアの国々だけです。学生服ほど没個性的な表現はありません。服を選択する自由、季節や色合いを考え自分に合った服を着て外へ出るセンスを磨く自由が奪われます。楽器を演奏したり歌うことが苦手な子がみんなに合わせることが果たして協調性の精神なのでしょうか?運動会も同じですね。学校で集団でやる必要などありません。競技大会に運動が好きな子だけが参加すればいいのです。

一番悪いのは、そのために長い練習を集団で強いられることです。早朝練習とか、放課後全員残って練習だとか、自分の時間を削って動かなければなりません。勝利をめざすならばそれなりの練習量が必要になります。楽しむ前に勝利が優先され、そのために個人、個々の生活が犠牲になるのです。これが果たして学校の目指す教育でしょうか?自分の好きなことは、学校外でも十分できます。また、学校外で社会がそういう環境を作り出さなければなりません。

ですから、私は公立学校の部活動廃止を訴えたいと常々思っています。スポーツだけでなく、芸術においても地域の人たちに任せ、学校という施設を貸せばいいのです。例えば、体育館、校庭、〇×室など。実際に、開放をしている学校もありますが、あくまでも学校教育(部活動含む)以外の時間帯でという規則になっていて、時間の拘束や学校行事のたびに使用禁止になります。これでは、学校側が常に指導権を握っていて、学校行事の合間だけ使用を許可することになり、地域の団体が計画的に動けなくなり、非常に不便なのです。静岡県の清水市では市立小学校のすべてにナイター施設が完備され、地域の小学生や仕事帰りの大人たちが校庭を利用して地域住民の健康に一役買っています。

オリンピックや世界大会で活躍するスポーツ選手は、学校の部活からは育たないのです。地域のクラブチームから、プロの指導者たちによって幼い時から育てられているのです。それは、スポーツだけではありません。芸術もしかりです。学校という管理社会から解放され、一人一人が自由に楽しくのびのびできる文化的環境を創造しなければなりません。そういう集団や地域の中で協調性を養い、集団行動を学べば問題ありません。

なぜ、中学校に入るとみんな部活動に所属し、学校側やPTAたちはその所属率が高くしようとするのか?「子供たちの非行を防ぐため」という回答があるそうです。つまり、部活に所属しないと「暇な時間をもてあまし、ろくなことをしないので、部活動で拘束したい」ということなのだそうです。・・・もちろん、健康のため、無料で好きな活動ができるといった積極的な意味合いもありますが、私個人的にはこの考えには反対です。まず、大人が、親が自分たちの子供を信じていないこと。次に、暇な時間がなぜ悪いことにつながるのかよくわからないこと。前回も記載したように、人間は暇な時間が大切なのです。極端に言えば「ボ~とする時間」が新しい発想やひらめきを生むという現実があるのです。「考える時間」が、逆に「考えない時間」が世の中の進歩に役立つことは周知の事実なのです。先にも書きましたが、昨今の学生は時間に追われた生活を強いられています。そして、学校教育の現場でも同様のことが言えます。

本当のゆとり教育とは、そういう時間(暇な時間)も含めた勉強への取り組みをすることなのです。決して、学習内容を減らし、職業体験や集団行動を増やすことではないのです。ですから、学校は、課外活動をなくし、勉強だけに取り組める場所にするべきなのです。芸術(美術・音楽)、スポーツ(体育)や文化活動(手芸・パソコンなど)は放課後の選択授業にすればいいのです。午前中で学問的勉強は終わり、午後からは各自が好きな課外活動に打ち込めばいいのです。もちろん、午後の課外活動を受けない自由もありますし、課外活動が有償の場合もあります。   

 こんな学校をつくることが私の目標でもあります。

 学校の先生たち、あまり生徒を拘束しないでください。もっと自由を与えてください。

 生徒の個性を大切にして、小さな個人を尊重してください。

 そうすれば、彼らが新しい、よりよい未来を創造してくれるはずです。信じましょう!

 任せましょう!私たち大人は後ろから支えてあげるだけでいいのです。